昭和元禄落語心中
一話を見た感想を一行でまとめる。
お見事である。
話芸とか伝統とかそういった部分を重んじつつもエンターテインメントとして落語の一時代を牽引していたと思う。枝雀の自殺は今でもショックな出来事であった。本人は暗い性格で高座に上がる時は面を被って演じていたのだという言葉も残している。自分もそういうところはあったので、共感も覚えた。
それを踏まえた上で落語好きの人と話をしても大抵鼻で笑われてもっと高尚な噺家がいいだろうと薦められることが多いので、落語好きの人とそういう話はしなくていいと思いあまり語らなかった部分でもある。クラシック好きな奴もいれば歌謡曲が好きな奴もいるんだということも理解出来ない輩と話をしても仕方ない。
誤解を生むかもしれないが、落語というのは高座で噺をするという形式の一つのジャンルである。上方とか江戸とかその中にいくつかのジャンルや様式の微妙な違いはあろうとも、高座で一席という大まかな括りの中でそれぞれの噺家が自分なりのやり方で作る世界だ。
そういった意味で最小人数で作る舞台と言っても間違いではないと思う。(お囃子や太鼓などの音響も考えた上で)
そもそも比較するものではないかもしれないが大人数で作るミュージカルのような舞台の対極が落語だと思う。
そのミニマムな舞台上で少しの仕草や表情、間合い、声色などを使い分け様々な噺を演じる。そういう世界だ。
で、そろそろ、昭和元禄落語心中の話に戻るが一番見事だと思ったのは、アニメでしか表現出来ないことをしっかりとやっていると感じたからだ。
かといって落語に入った時に高座を離れて長屋の風景になってはいけないのだ。それは過剰演出だ。ミニマムな演出でその空気を醸し出すことが落語。そこはきっちり守られている。何より一番驚いたのはそこだ。
恐らくこれを全く同じカット割り、全く同じカメラワーク、全く同じ間合い、全く同じ演出でCG織り交ぜながら実写でやっても台無しにしかならないだろう。
そのバランス感覚たるや恐ろしいレベルである。
でも、この作品自体は人気出て欲しいけど安易な形でおたくの間での落語ブームは来ないで欲しいという大変複雑な気持ちであることも書いておこう。
いや、これは見ておくべきですね。